1889(明治22)年に創業した攝津製油は、1989(平成元)年に創業100周年を迎えた。
ここでは、創業の背景である江戸時代を起点に、明治、大正、昭和、平成の5つの時代を写真で振り返る。
江戸時代末期、摂津の国(現在の大阪・神戸)は菜種の一大産地で、春になると一面に菜の花が咲き乱れた。
(大阪市中央図書館所蔵)
絵は1856(安政2)年、浮世絵師の暁晴翁が著した大阪の名所案内記「浪華の賑ひ(なにわのにぎわい)」より「菜花盛(なのはなざかり)」。
黄金色の絨毯と、遠方を往来する船の白帆が描かれ、手前の料亭からの眺望は絶景であったとか。
明治維新により、急速な近代化を進めた日本。政府は西洋諸国に対抗し「殖産興業政策」で産業の近代化を推進した。
当社が創業したのはそんな気運の1889(明治22)年。産業革命の波に乗って、一気に新しい製油産業を作り上げたのだ。
大阪では菜種が多く栽培されていたが、明治中期の製油業は家内工業の域。
そこで日本の産業近代化を見据えた大阪財界の有力者達が、明治22年5月7日、資本金20万円で有限責任攝津製油会社を発足。
写真は第1回・第2回の株主総会の記録。
創業の頃の酒粕用商標看板には「セッツセイヱウ會社」の表記。
明治後半から大正初期には、大阪の菜種油相場を攝津製油が取り仕切っていた。その頃に菜種油につけられたラベル。
創業当初から工場の作業着として使われた法被。昭和30年頃まで工場で使われていた。
法被の背中には菱水印が染め抜かれている。
野田工場は1902(明治35)年に建てられ、2003(平成15)年までこの場所で操業した。建坪は100坪。
鳥瞰図は1907(明治40)年頃の野田工場。
(写真提供/日産化学株式会社)
農業の発展に寄与すべく、1908(明治38)年に建てられた人造肥料工場。のちに東京人造肥料株式会社(現在の日産化学)に工場を売却した。
人造肥料販売所の看板が残されている。
特約店は「魚印(うおじるし)」のついた「攝津製油株式会社・製品販売所」と書かれた看板を掲げていた。
「魚印」商標は1916(大正5)年に大日本人造肥料に譲渡した。
明治年間には工場火災が4回起きたと記録に残っている。中でも1905(明治38)年10月13日の火事は大きく、午前6時に出火し、3時間燃え続けた。
倉庫に残った菜種の油粕を大安売りするため、大阪朝日と大阪毎日新聞に広告を掲載した。
(京都大学人文科学研究所蔵)
19世紀の後半から20世紀初めにかけて、世界的な博覧会ブームが起きた。
1900(明治33)年に行われたパリ万博博覧会は、約4800万人の入場者が訪れ大盛況。
ここに出展した当社の菜種油が金賞牌(牌はメダルの意)を受賞し、日本の同業者を驚かせた。
(大阪城天守閣蔵)
1903(明治36)年、大阪で行われた内国勧業博覧会は、出品点数27万6千点、5ヶ月間で参観者530万人以上という盛大なイベント。
当社は菜種油・白絞油と菜種油粕を出展し、それぞれ1等賞という栄誉に輝いた。
同年、明治天皇の勅使が当社に来臨し、工場から倉庫に至るまで巡視される光栄にも預かった。
第5回内国勧業博覧会 1等賞牌
(京都大学人文科学研究所蔵)
1904(明治37)年に行われたセントルイス万国博覧会。
セントルイス万国博覧会で菜種油・白絞油金賞牌を受賞。
1910(明治43)年、ロンドンで行われた日英博覧会には、菜種油を出品し、名誉賞を受賞。
賞状の図柄にある人物や風景は右半分が日本を、左半分は英国を表している。
1911(明治44)年、貿易製産品評会で銀賞を受賞。
1912(明治45)年、帝国農会から受けた功労表彰状。
同会は農業振興のための指導的役割を果たすことを目的とした農業団体で、現在の全国農業協同組合の前身。
15年と短く、日本史の教科書での登場場面が少ない大正時代。
しかし民主主義へ歩み出す「大正デモクラシー」や、第一次世界大戦、関東大震災などがあり激動の時代でもあった。
当社の製油工場はフル稼働し、工場の写真も数多く残されている。
菜種白絞油の搬出風景。一斗缶に詰められた油を2缶ずつ木箱に入れ、縄掛けして鉄道貨車に積み込み、各地へ出荷していた。
写真後方の土手の上を、1898(明治31)年に開通した国鉄西成線(現在のJR桜島線(愛称:JRゆめ咲線))が走っていた。
工場西側を流れる木場川に船が出入りし、原料や製品の搬出・搬入を行った。
この水路は、昭和30年代に埋め立てられるまで、当社物流の要となっていた。
油の充缶工場。左手前はドラム缶、右手前と中央は一斗缶に詰めている。
1920(大正9)年、当社は油脂業界で初めて民間の研究所を開いた。写真は分析室の様子。
当時の学生たちにとって憧れの研究室だった。
原料から圧搾によって油を得る装置「エキスペラー搾油機」。
1926(大正15)年に建造した、工場西側に係留中のタンク船。手前が第一攝津丸、奥が第二攝津丸。
1926(大正15)年、第2回化学工業博覧会で金賞を受賞。
1939(昭和14)年に始まった第二次世界大戦前後で大きく雰囲気が変わる昭和の時代。
高度経済成長期にはカラーフイルムが流通し始め、写真が色付きになる点も注目だ。
昭和初期。本社工場の鳥瞰図と、製品配達用の貨物自動車。
まだ荷馬車や大八車(だいはちぐるま・木製の人力車のこと)が運送の主流であった頃、社名が大きくペイントされた車で市内に製品の配達をした。
精製した綿実油は食用として非常に良質で菜種油に伍して愛用され、工業用としては石鹼の原料に、食品加工用としてはマーガリンの製造などに使用された。
また素麵の手延べには欠かせない油として「播州手延べ素麵」や「三輪素麺」等に当社の綿実油が使われていた。
オレバの前身は1931(昭和6)年に誕生した「雪白油(ゆきしらゆ)」。
攝津製油の油は他社より高く売れたため、菱水印のついた一斗缶の口金が売買された。
安く仕入れた他社の油にこの口金をつけて売るなど、信用問題に関わる事件も勃発した。
オレバ白缶(調合)。
食用サラダ油「OLEVA(オレバ)」の黄缶(綿実)。
手延べそうめんの産地や高級レストランでも愛用された。パッケージは唐草模様の優雅なデザイン。
昭和初期に起こった世界恐慌。生き残りをかけた施策として、油脂に関連する石けんの製造・販売を開始。
1929(昭和4)年に発売された石けんと、宣伝用のマッチ。
1944(昭和19)年、戦争激化のため、海軍省の軍需会社に指定された当社。海軍大臣から発行された「海軍大臣監督工場」の証書。
1945(昭和20)年、農商大臣から発行された軍需会社の指定令書。この直後に終戦を迎えた。
1945(昭和20)年に終戦を迎え、その4年後に株式上場した当社。この写真は1950年、創業61周年の時のもの。
1959(昭和34)年頃、構内を走るトラック。
創立88周年。八の字の末広がりにちなんだ8月8日の大安吉日に工場の竣工式を行った。
1977(昭和52)年には2億2千万円を投じ、最新鋭の精製工場を新設。
1963(昭和38)年、固ねり状の食器用洗剤「パロンゴールド」を発売。
泥のついた野菜・果物が普通だった時代、食器だけでなく野菜洗いにも重宝された。こちらも現在まで続く超ロングセラー商品。
1967(昭和42)年のパロンゴールド。
1979(昭和54)年、天然・自然志向として、原料に天然やし油を使用した「パロンエース」を発売。
1985(昭和60)年、天然志向に加えて価格よりも高品質のものを求める消費者ニーズに応え、パロンエースを改良した高級志向の「Beautyクリスタル」を発売。
1990(平成2)年には英文字表記の「PALON」に。
パロンゴールドには数種類の天然ハーブを配合、パロンエースには天然ホホバオイルを配合した。
食器洗いの能率を大きく上げた1955(昭和30)年発売のソープレスソープ「ソフテックス」。レストランのコックさんが笑顔になるパッケージ。
ソープレスソープ…「石けんではない石けん」。石けんは天然油脂を原料とするが、石油など油脂以外の原料を用いて合成される洗剤をこう呼んだ。
電気洗濯機が「三種の神器」と呼ばれ、急速に普及した1962(昭和37)年には、洗濯用粒状洗剤「セッツイチバン」を発売。
ポリ袋入りで2kg、1kg、500gの3種類。現在まで60年近く続く、超ロングセラー商品となった。
1980(昭和55)年の製品ラインナップ。箱入りの「セッツイチバン」を中心に、液体、粉の化成品がずらり。
上段/左から「セッツクリーン」「ビューティクリーンK」「新サンビバー」
中段/左から「ビューティークリーン」「セッツクリーン」「セッツイチバン」「パロンW」「サンビバー」「ソフター」
下段/左から「バルトクリーン」「セッツパロンL」「セッツパール」「セッツカラーイチバン」「ダイバー」「粒状粉せっけん」
手前/左から「ユーセル」「メタロンM」「ソフテックス」「パロンエース」「パロンW」「セッツカラーイチバン」「サンビバーレモン」「ソフトレモン」「セッツブリーチ」
海水浴に行き、小麦色に日焼けすることが若者の間で大流行。
1967(昭和42)年には日焼けを助長する日焼け用オイル「サンオリーブ」を発売。
テレビ宣伝を行い、海水浴場を宣伝カーで巡回した。
1973(昭和48)年には日焼け後の身体を洗うボディーソープ「ビューティー」も発売。
1985(昭和60)年阪神タイガースが久し振りに優勝し、タイガースグッズが飛ぶように売れた頃、当社も5色刷りのタイガースマスクを印刷した高級透明石けんを発売してファンを喜ばせた。
美容洗顔用の高級透明石けんは、爽やかな香りと肌をなめらかにすることで好評を得た。
石けんの中心部にはお好みに応じた図柄・社章・キャンペーンマーク等が印刷され、使えば使うほどその印刷が鮮明に浮き上がることから、宣伝用・記念品・贈答品として広範囲な需要があった。
1990(平成2)年、株式会社バンダイから発売されたキャラクター・シャンプーを当社で製造した。
子供たちに人気の高い「ハローキティ」「けろけろけろっぴ」「おっきなアンパンマン」を使ったもので、「夢」「楽しさ」「遊び」を与えるユニークな商品として好評を博した。
1986(昭和61)年、天然やし油を原料とし、さらに天然ハーブエキスを9種類配合した自然派タイプの手にやさしい洗剤「SKシリーズ」を発売。
1988(昭和63)年には天然ホホバオイルを配合した「OSシリーズ」、1990(平成2)年には紙缶使用の天然野菜エキスを配合した「野菜の国シリーズ」を発売した。
前年の1988(昭和63)年には100周年のキャンペーンマークを発表。全社員が胸章をつけ、名刺や封筒にもシールを貼り、ご支援いただいた皆様への挨拶とした。
1989(平成元)年に行われた創業100周年パーティ。
1890(明治23)年に建てられてから2003(平成15)年に解体されるまで、113年もの長きに渡り操業していた攝津製油の野田工場。
明治からの歴史を感じさせる、レンガの美しい建物。
1991(平成3)年頃、野田工場から北に向かって見たところ。高い煙突が当工場の目印だった。奥を走るのはJR大阪環状線。
本社工場の正門には春になるとツツジが咲き誇り、お客様を迎えていた。
幕末から明治にかけて花開いた日本のレンガ建築。重厚さとモダンな印象を兼ね備えた建物は、文明開化の象徴でした。
レンガには「日本国」の刻印があった。
1902(明治35)年に建てられた木造の製油工場を持つ攝津製油は、社内に自衛消防隊を結成。
「攝津製油百年史」によると、構内に派出所を設けたり、近隣に消防用の警鐘台・警鐘を寄付するなど、町の安全にも注力していたという。
写真はすべて2003年のもの。
下の写真3枚はほぼ同じ場所から撮影したもの。大阪市の都市計画で道路が大幅拡張された。
2003年の野田工場。
2004年解体後。
2010年撮影。北港通から大阪市中央卸売市場に向かう、4車線の道路が造られた。レンガの工場があったあたりには鉄筋コンクリートの高層マンションが。
2019年5月7日、創立130周年を記念し、創業の場所に石碑が建てられた。刻まれた碑文には「攝津製油発祥の地」とある。
2003年10月6日、竣工式と工場の起動式は、石津太神社の神主様をお招きして執り行われた。
本社に遅れること2ヶ月、同年12月12日には常磐神社も無事に移転完了。
竣工されたばかりの堺本社工場。